プロローグ  2015春ひょんなことから私たち兄弟(高橋英毅・日出雄・薫)の医師としてのルーツ探しの旅が始まった。

当院の看護師が受診した近医の同窓耳鼻科医で日本耳鼻咽喉科学会百年史編纂に携わり、又日本医史学会古くからの会員でもある木村繁先生から電話を頂いたことを切っ掛けに、私共の母の叔父耳鼻科医黒須巳之吉が金杉英五郎養母の姪である先妻貞子を亡くし後妻に迎えた巴の元夫が、エミール・スクリバ(42歳病死)で、その父親が、明治黎明期のお雇い外国人ドイツ人医師のユリウス・カール・スクリバであることを知った。

ユリウス・カール・スクリバは外科医で、同僚の独チュービンゲン大学入学ハイデルベルグ大学卒業の内科医エルヴィン・フォン・ベルツと共に日本の西洋医学の基礎を築いた。共に20年以上日本に滞在し、日本人を妻とした。スクリバは、東大で外科系を教え、ドイツ大使館の医師を務め、1901年東京大学退職後、狩猟仲間であった関係で初代院長トイスラーの聖路加病院外科主任となり日本外科学会名誉会員で56歳鎌倉で亡くなっている。黒須巳之吉は、一高東大を卒業し、慈恵医大初代学長金杉英五郎の病院に奉職その後ドイツ留学と第一次大戦勃発後はスイスに移りバーゼル大学留学 (この前後の詳細は、耳鼻咽喉科展望1968.11 特集 明治100年と日本の耳鼻咽喉科の中「明治一百年について」頁463-頁467黒須巳之吉)後、金杉病院副院長となり、金杉院長の命により慈恵医大東京病院耳鼻科部長転職、関東大震災で東京病院退職し千代田区永田町に耳鼻科病院開設、慈恵医大より医学博士号を取得。昭和40年5月号慈大新聞には、金杉英五郎ご生誕100年記念会の準備委員長としての黒須巳之吉の記事あり。しかし、私共の母方祖父の兄である黒須巳之吉の父親は大工であり、その長男である巳之吉が何故医師になったのか不明であった。 ところが現在ニューヨーク在住の2012年瑞宝中綬章受章のコロンビア大学痲酔科終身名誉教授の産科痲酔の権威森島久代先生から、2015暮れに 日本でお話を伺う機会を得て、謎が解けた。森島久代先生の御祖父は、駿河沼津藩主8代目の 水野忠敬の重臣で織田信長の子孫である織田豊二であり廃藩置県で千葉県菊間に藩主と共に 転居し教育に携わる。この明治学制改革前後に千葉県成田で織田豊二は、多くの人を支援し教育し現在成田の織田家菩提寺天台宗薬王寺境内に、この織田豊二を讃える石碑があり、織田豊二の支援を受けた中の一人である黒須巳之吉は医師になり、末弟七郎も慈恵医大卒の耳鼻科医となり、また母の兄である巳之吉の甥の黒須房男は、外科医となり、その長男光男や我々兄弟も医師になったと思うと感慨深いものがある。尚、黒須巳之吉の後妻スクリバ・巴は、鹿島出版会の鹿島卯女著ベルツ日本人妻「ベルツ花」に、お雇い英国人建築家の東大教師で鹿鳴館・ニコライ堂・三井倶楽部などを設計し日本画家河鍋暁斎の弟子でもあるジョサイア・コンドルが建てたスクリバ邸にベルツ死去後帰国した妻ベルツ花を呼び寄せ晩年を共に過ごし、また黒須巳之吉がスクリバ邸でベルツ花を往診し耳鼻科手術したと記述されている。また外科医英毅(日本医大昭和41年卒、ユリウス・カール・スクリバの長男フリッツが日本医大ドイツ語教師の関係で日本医大図書館にはスクリバ文庫がある。)の結婚式に黒須巳之吉・巴夫妻が出席され私共はお会いしている。尚、私たちは傍系ですが、直系の黒須巳之吉の長男正夫は東大卒の耳鼻科医となり黒須巳之吉の五男は、元東邦医大麻酔科教授黒須吉夫であり、その長男は黒須譲(Dr. Joe Kurosu米国エール大学卒で米国と日本の医師免許所有)であり、東京で臨床医をしている。明治のスクリバ一家は現在青山外人墓地に眠っている。(敬称略)