ユリウス・カール・スクリバ(1)

日本の近代西洋医学の外科・耳鼻科・泌尿器科・脳外科の基礎を築く。日本で最初の腎臓摘出術、頭部陥没骨折の手術、あるいは、日本で最初のレントゲン装置を導入し診療に使用した。また狩猟が趣味で日本で最初にシェパード犬を飼っている。下関条約締結のために来日していた清国の李鴻章負傷事件、ロシア帝国の皇太子ニコライが負傷した大津事件など様々な政治的大事件で、日本政府の要請により現地に赴く。昭和11年12月4日 日本医史学会スクリバ先生追憶の夕から引用 中外医事新報1240号 昭和12年2月28日発行 ユリウス・カール・スクリバとゆかりのある著名な東京大学外科医 近藤次繁關場不二彦田代義徳芳賀榮次郎・西山信光らが記事を寄せている。

東京帝国大学教授・病院長近藤次繁によると、スクリバの弟子として、スクリバの略歴を述べている。「ユリウス・カール・スクリバは、1848年6月5日 ヘッセン大公國のラインハイムにて出生。長じてダルムスタットの中学を出て、薬剤調剤師の父上から調剤を学び、その免状を取る。その後1869年ハイデルベルク大学で医学と植物学を学ぶ。1874年 ドクトルの学位を取り、ベルリンの大学でも学び、フライブルク大学でジモンの助手となり、1879年 有名な脂肪栓塞論を著している。1881年我が国に招聘される。爾来明治35年まで大学に在職後、満期解職となり帝大の名誉教授を授けられておりますが、その後聖路加病院で外科担当。糖尿病に罹っており、右肺を痛めており、ベルツ先生の日記の1905年1月3日の條を見ますと、ちょうどその日は、旅順の陥落の時で市中は大賑わいをやっているが、余にとっては実に不快の日であった。午後3時30分 スクリバ56歳を以て逝けり。云々。亡くなられた後で勲一等を賜りまして、宮中から特別のお取扱いを受けた次第でございます。それから1月6日に青山墓地に葬りました。これがざっとした一生のご経歴でございます。ご家族のことを一言申しますと、先生は、關場さんがご承知かも知れませんが、私の知っている限りでは、越中富山の人で神谷さんという方の娘さんを非公式の妻君に(この時代正式な国際結婚は、互いの国で困難であった)しておられ、男の子が三人 云々・・・ 兄さんは、肺炎で亡くなり、弟のエミールという人は、盲腸炎のため腹膜炎で亡くなり、末っ子のヘンリー君が達者で暮らしております。云々・・・南ドイツのヘッセンの人間は、概して非常に人が良いそうでありますが、殊にスクリバ先生は良い所の内でもその良いところを代表しているということは豫々承っておりました。衣服などは、実に邊幅を飾らん人で、私の知っていることは洋服の話でありますが、本郷の龍岡町のおりましたものが能く話しました。スクリバ先生は、その当時大学の中の官舎におられた。何時も裏が破れると、そっくりに寄越されるので、裏が継ぎだらけであった。外には、継ぎはないが、裏は継ぎだらけ。手術の時に脱がれる洋服を見ると、裏が継ぎだらけであります。然し、煙草と酒はご承知の通り非常に贅澤で、先生の宅の貯蔵室には何時も良いものが取寄せてあった。先生の病気の時門人等が宅へ詰めかけていった或る夜の十時頃に疲れたらしい顔をして居ると、其処へベルツ先生が入って来て皆、腹が減ったろう、この家には良いものがあるから取って来ようじゃないかというので、私などは食べたことのないような美味なものを「コック」に言いつけて持って来させて食べたり飲んだりしたことがあります 云々・・・。また先生は猟がお好きであったことはご承知の通りで、日曜日には必ず出て行かれました。お供は、大概車夫で行先は、近郊で、何時も同じような所でしたから、しまいには土地の百姓とも親しくなられて、近所に病人があると先生が鉄砲を打っている所へ出かけて診て戴く、というようなことが能くありました。私は、猟のことや、犬のことは存じませんが、先生は常に良き猟犬を持って居られた。今流行の「シェパード」は先生が一番はじめに所寄せて飼われたのではないかと思いますがどうでしょうか。云々・・・ 大正天皇が皇太子であらせられた頃に、スクリバがドイツから珍しい犬を持って来たから見たいという仰せがあって花の御所へ持って行って、御覧に入れたということを聞いております。・・・先生の御在職中に学生として先生の外科の講義をお聞きしたものは約500人以上あります。特に卒業後先生に助手として親炙したものは、はっきり判りませんけれども60名以上あります。是等の人々が、各所にて外科の最高峰として働かれた為に、日本の外科術というものが今日を為したのでありますから、全くスクリバ先生の直接間接の御尽力の為に開けたといっても差し支えないと思います。云々・・・スクリバ先生の我国外科に於ける功績とは比較にならぬと思います。スクリバ先生の古い弟子の一・二を申しますと、京都大学の前身の京都医学校で外科をやっておられた猪子君。仙台の亡き山縣君などがスクリバ先生の十二分の影響を受けられた人であります。佐藤三吉先生も又後に眼科に移られた河本先生も二年間助手をしておられた。その他、日本に於いて其後新たに帝大の出来ました時に、その教授の重任を負われた猪子君、伊藤隼三君の如き有数の人が居られます。それから先程おいでになりました關場君の如きは、謂ゆる北門の鎖?北海道に於いてその力量を十分お現はしになっておられます。また只今おいでになりました田代君も長らく先生の助手として日本の外科に尽くされた方であります。木下君は中途から婦人科の方に移りましたけれども、余程長い間、外科医者として働いておいでになった筈であります。各地方の外科を牛耳る者の大多数は先生の門下であることから考えますと、確かに日本の外科は先生の為に起こったといって差し支えないように思います。云々・・・ スクリバ先生は明治14年6月においでになりましたが、その時に故弘田長先生其当時外科の助手であったが為か、横濱に先生を迎えに行かれたということであります。スクリバ先生は、技術が非常に前任者に比して優秀であったということは、その頃でも、また後でも聞いたことがあります。御列席の先輩は尚お聞きになったことと思いますが、器械掛という日記に、今度来たスクリバという人は、学問の優否は自分は解らんけれども外科の手術は非常に巧妙であるということが書いてあります。大西という人から後で聞いたことですが、骨折か何かの治療の時に、象牙の「スチフト」を打込んだのを見て偉いことをする。と云われたということを耳にしたことがあります。云々・・・ それから、少なくとも私だけは、面白いと思うことは、明治15年の雑誌に記載してあることですが、十幾つの子供で怪我をして、竹か何かを口に入れ口蓋を創つけたのを縫う手術をしたのであるが、大変出血しておって麻酔薬をかけている間に気管内に血液が流入し、患者は窒息す、人工呼吸を為すに反応なく、皆驚く中スクリバ先生は驚くに当たらずと、直に気管切開を為す。その迅速はことは驚くべきで、直に「ゴム」管を通し危急を脱することを得たのでありますが、筆者はそれを流石の専門の名に背かざるべし。云々・・・それから明治15年の夏、北海道に旅行されて帰って後、穴居のことに就いて先生が、東亜学会で話して居られます。先生の考えによればこの穴居の跡を人は皆今までコロボックルの遺跡だといってをったんですが、先生は、それに反対されて、それを内地から行ったひとが何かの目的で掘った穴である。ということを申されました。当時札幌におられたグリム先生が、それに対して反対されたので、先生は躍気になって再度反駁されております丈。先生の観察は間違っておったでしょうが、これは、北海道へ旅行されたお土産であります。明治19年に畏くも、明治天皇が大学に行幸遊ばされました。その当時スクリバ先生は、バクレンの焼灼機その他二三を天覧に供しております。それから二十一年に先程申し上げましたように一度帰省されましたが、その時の新聞に新橋駅頭、見送りの者百名、盛大はりというふ記事が書いてあります。云々・・・ 明治24年10月28日の濃尾地方の地震には先生も出張されましたが、田代君、關場君が随行を命ぜられた訳ですが、私共三四のものも一緒にってお手伝いしたのであります。この時は、随分難儀をされた東海道汽車は岡崎どまりそれから先生丈まづ人力車を雇い得て乗られ十数里の途を名古屋まで行った。そこで信忠と云う宿に泊まりたるが夜は燈なく僅かに蝋燭の火ありしのみ翌日県庁へ行って、向かう所の指図を受けたが何が何だか分からず琵琶島一之宮を経て木曽川縁の或る所黒田と云う村に達したのが夜8時頃それからお米を炊くのみ水がないので傍の小川の水をとったので砂利混じりの飯が出来夫れを食べたことを憶えておりますが、スクリバ先生は、此れを食し,又何か他の物を食べておったと思いますが、此時先生は、自分が普仏戦に従軍したがその時よりはひどいと云われて居りました。後に一の宮と云う町に移り寺院境内の掘立小屋に起臥して負傷者を救療すること二三週なりし、これに就いて大木文部大臣から特別の謝状が来ております。明治24年4月に「ツベルクリン」が此方にまいりました。云々・・・ 明治30年モスコーの第十二回万国医学博覧会に出席されておりますが、その時に先生が持って行かれた講演された「テーマ」は、本邦に於いての麻酔法に就いての成績を報告されております。田代君の話では、スクリバ先生の云われたことの中に、日本人は菜食人種だから、肉食をしないから「クロロホルム」麻酔の成績が非常に良いと報告されたというのであります。肉食を余りしない植物食の為であるという先生らしい結論であります。1882年には、有名な脂肪栓塞のことを、1878年には膝関節の傍のHygromaの診断治療に就いて書いておられます。
(敬称略) 続く