巴 様

旧姓小西巴 

昭和11年12月4日 日本医史学会スクリバ先生追憶の夕から引用(中外医事新報1240号昭和12年2月28日発行) ユリウス・カール・スクリバとゆかりのある著名な東京大学外科医 近藤次繁・關場不二彦・田代義徳・芳賀榮次郎・西山信光らが記事を寄せている。

スクリバ門下十哲の一人 關場不二彦氏がスクリバ先生を追想すと題して記述しているのでスクリバ先生の家族についての文章を引用する。

「私(關場不二彦)は、昭和6年3月と思います。青山の(スクリバ)先生のお墓にまいりました。其墓石は九尺ばかりの大きなもので土墓石は三尺ばかりで、西の方を向いており可なり大きな石碑でございます。それは、スクリバ先生の生年月が刻んでございます。その傍には夫人の名フラウ・ヤス・スクリバと書いております。云々・・・ 夫人は、先刻お話になりました如く神谷ヤス子という人でありますが云々・・・。その北にはフリッツ・スクリバ氏の墓がございまして日本大学教授(日本医大の誤り)フリッツ・スクリバ氏云々・・・その傍に南向きになっておりますという人はマリ子エムマーという名の人であったと思われますが解りません。然し、長男はフリッツ、次男はエミール、三男は、ヘンレエであってこのエミールは何病かで死んだのでありますが、非職リウテナントとありますから、ドイツでリウテナントになった人であらうと思います。この人の夫人は、スクリバ・トモエ、即ち小西氏を名乗っておられます。この人は、昭和8年3月東京府立第三高等女学校を卒業されております。それでエミールが亡くなられ、未亡人となって更に後年になり黒須君の所に嫁がれておりますが、黒須君は麻布霞町に居られ、砧村に別荘を有って居られ又溜池に病院を経営しておられると聞き及びました。その前にエミールとの間に出来ましたお嬢さんがエミ子と申されております。此のエミ子という人がスクリバ先生の系統を継ぐことになっておるとのことで、目下東洋英和女学校小学科に修学しております。これは、私の孫娘と同学校で同期である關繋からして調べました次第であります。」

西山信光氏がスクリバ先生追憶会の記事に追加す。の中から文章を引用する。「横浜の本牧に独逸の海軍病院があたことは關場博士のお話にも出たが、それが閉鎖せられて軍医諸君が帰国するので送別会が開かれた。その時に私(西山信光)も駆り出されて出席したことがある。場所は、芝公園の紅葉館であった。私は、、森林太郎博士と一足違いに到着したので両人対話している処へ、ベルツさん、夫れから青山胤道博士がスクリバ先生と肩を列べて話ししながら這入って来られた。青山博士がベルツさんと話をしている間に森博士が私をスクリバ先生に紹介せられた。その内に来賓の軍医諸君を始めとして続々来著した。かくして私は、先生を識ったのである。云々・・・スクリバ先生は三輪先生に後事を托されたという話を仄聞したことがあるので、どういう事を托されたのやら御聞及びはないか、またスクリバ先生の写真とか、書簡とか、何か遺墨はないものか、若し材料があるなら今夕の会に出品展覧され且つ御持ち願いたいと三輪先生の令嗣に申通したが、何も聞いたことがなく、また出品するものもないとの返信に接し、いささか落胆はしたが、私は聞き及んでいたことだけを申し述べておく。勿論家庭のことは秘事に属するものが多いから、夫れは別としても三輪先生御在世なれば沢山の追憶談が出たことと思う。例えば、先生の次男エミール氏の未亡人巴さんが友人黒須君と再婚せられているので、いろいろ面倒をかけて調査し得た処を記すこととする。スクリバ先生は、従前から糖尿病に罹って居られたが、1903年頃肺を冒され咳嗽頻発して大いに苦しまれたが、中々頑固にして医治を受けられなかった。ベルツさんに診て貰ってはと勧める人もあったけれど、「ベルツはお饒舌だからいやだ」といわれた相である。久保徳太郎君は常に傍に付き添って居られたが、同君にもツイ一度も聴診器を当てさせなかった。しかのみならず床にも就かず終始ソファに寄りかかって静養されていたということである。先生終演の日即ち1904年元旦には長男フリッツ氏次男エミール氏共に独逸に留学中であったから家族としては夫人並びにヘンリー氏、其他には久保徳太郎君のみで、この三人に見護られて寂しく昇天せられたのである。ヘンリー氏はその時9歳であったか

ら何事も父を語るに足る材料を有されない訳である。云々・・・ 診察せる患者の症例記事、写真等はヘンリー氏の倉庫中に収蔵せらる。然るにヘンリー氏宅は目下普請中にて探し出す事もどうする事もできないので掲げる事が出来ないの残念に思う。先生の趣味は、刀剣、絵画、銃猟なりという、私がエミール未亡人(巴さん)から借用した書類の中にも画家の名を順に記載し、年代や印譜など記されたものがあるのを見ても分かる。併し田代博士の言われたようにベルツさんと違い余り書くこと好まれなかった様で日記なども見あたらない。ユリウス・スクリバ先生逝きて三十有余年、先生の形骸は既に現在より消滅せるも、先生の伝えたる技術並びに精神は今猶ほ存す。今玆日東君子國の義を重んずる弟子竝に篤学の士等相集まりて往時を追憶して師を偲ぶ。先生また以て瞑すべし」(敬称略)


黒須巳之吉ご夫妻(黒須巳之吉先生とその奥が巴夫人)